浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会
かわら版《第4号》1999
大阪百景むかし巡り「大阪株式取引所」
写真は、大正時代末期の北浜2丁目交差点である。正面角に建つのは大阪株式取引所で赤レンガ造りの3階建は、明治の洋風建築らしくいかにも豪壮華麗である。
画面の左に見えるのは天神橋から西に向かう市電、右は、堺筋を北進して左折、同じく西へ淀屋橋方面に向かう市電であるが、信号が点灯もののごとく、市電の荷車も、リヤカーも歩行者も、まるで歩車天国のごとく自由に交差点の真ン中を往来している。80年前の大阪の都心は、こんなにものどかであったのかと驚く。
大阪株式取引所(現大阪証券取引所)は、明治11年6月に認可を得、12年1月から株の取引を開始した。大阪商法会議所(現大阪商工会議所)初代会頭の五代友厚・豪商鴻池善右衛門・住友吉左衛門などが発起人である。
取引所の位置は、江戸時代の金相場会所があったところで木造平屋であったが、明治27年に建坪93坪の北浜最初の洋館を建設、明治32年、41年に立会場等を増築、44年に威風堂々たる写真の新取引所を完成した。
取引所創立時に開業した株式仲買人は80余名。それまで、金相場関係した旧両替商の多くが看板をぬりかえたもので、「格子造りの外に用水桶があり、入口には黒麻の暖簾をつるし、店内は畳敷の上段に結界をめぐらした机を手前に、手代番頭が控えるという仕末であった」(宮本又次著「大阪繁盛記」)という。
現在の、巨大円柱を軸にした近代建築は昭和10年に改築したもので、昭和戦前期の活況、戦災、そして戦後経済の激動を眺めてきた建物である。
今に生きる、名言・家訓(1)
「朝起五両、始末拾両、達者七両」
古今のすぐれた人物のすぐれた言葉は、物ごとの不変の原理を踏まえている点で共通している。世の中は生きものであり、常に曲がり角であり、混沌であるが、どのような時代が来ようが、これで生き抜けばよいのだという思想で貫かれている。名言・家訓なるものは、実在した人物の、実際に見聞きし、体験したことがらから引き出された緒論であるが、それを受け入れるも無視するも当然自由である。名言に接して鞭打たれて転機をひらき、窮地を越えるのも文化なら、見世物風にこれを楽しむのも文化の効用である。
士農工商の外出家・神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせ、金銭を溜めむべし。是二親の外に命の親なり。(井原西鶴「日本永代蔵」)
公務員・農業・職人・商人はもとより、坊さんも神主も、始末・倹約を信奉してお金を溜めなさい。お金は両親とともに命の親です、というのである。ガリガリの金の亡者になれと言っているのだが、もちろんそれだけではない、物を大切にしなさい、お金を大切にしなさい、と言っている。物を浪費すると、当然金と物に追いまくられる。人間、金が無ければ卑屈になる。嘘つきになる。つまり、度を越した消費は生活が破綻し、人間が駄目になることを指摘している。では、どうすれば金が溜まるか。
長者丸といへる妙薬の方組、伝え申すべし。朝起五両、職弐十両、夜詰八両、始末拾両、達者七両(井原西鶴「日本永代蔵」)
いまでいえば、家職は仕事に万全を期すこと、夜詰は、その日のことはその日に片づけること、達者は健康である。西鶴は、朝の早起きとこれらをうまく調合して実行すれば、かならず長者(金持)になると言っている。私たちは長者らしくなっているが、どうも体の中をうすら寒い風が吹いている。どっしり自信の根をおろした長者ではない。不況・災害の恐怖と不安感が消えない。だが、当座の利害に迷うことなく、あわてることなく商いの本道を歩きなさいと家訓は教えている。
古来我家相伝の駈引方自然に有之候、目先の名聞に迷はず、遠き行末を平均に見越し、永世の儀を貫き可申候、当座の高下を争い諸人の気配になずみ候事は愚人の行いにて商人の器に無之、商内は誠に危き事に候。(外与家訓)
目先の利害に迷わず、損もあれば儲かる時もある長い年月を平均に見渡し、永続してゆく。そこを貫いてゆくのが当家の先祖代々の商法である。一時の損得を争うのは愚かで商人の器ではない。危険千万である、というのである。
江戸時代における、大阪商人哲学である。
うんちく辞典(4)
船場・北浜「帝国座」
明治43年(1910)3月、船場北浜の地にて大阪で最初の西洋式演劇場「帝国座」が開場した。煉瓦造、3階建、建坪260坪、外壁は西洋風の洒落た様式である。当時、新派の俳優として名声を上げていた川上音二郎(1864~1911)が、実業家などの援助により建てたものである。
音二郎は、明治20年(1887)ごろ、「権利こうふくきらひなひとに 自由湯をばのませたい オッペケペオッペケペッポーペッポーポー」というオッペケペ節で、自由民権思想を基に、政治・社会を風刺し、人気を博していた。
その後、「板垣君遭難実記」などの書生芝居、「ハムレット」などのシェークスピアの翻案劇の上演をはじめ、その間には、妻貞奴(日本で初の”女優”)とともに、一座を率いてアメリカ、ヨーロッパへの海外巡業を行っている。
帰国後、音二郎は、劇団の革新と、”新しき芸術の理想を日本に行いたいと思いたる平生の素志を遂げたる”ものとしての劇場の建設にとりかかる。それが大阪”帝国座”であった。 会場前のセレモニーでは”多くの客をむやみに収容してむやみに営利を心がけるものではない”、”芸をやる舞台を広くして劇場の半分とし、天井を高くして道具をつり上げるようにしつらえ、幕間を短くして客に退屈させず、下足のまま入場するようにして手間をはぶき、努めて気楽に見物し得る方法を取り、脚本をえらびて文芸の趣味を進むるにあり”という口上を述べ、帝国座建設にあたっての注意とさまざまな工夫を紹介している。
しかしその翌44年(1911)、帝国座上演期間中、病に倒れ、楽屋で息を引きとる。志半ばの死であった。 帝国座は、音二郎の死後、大正初めごろまで興業は続けられたが、その後は、住友銀行、大阪カトリック教会となり、その外装も若干の変化がみられる。現在は住友信託銀行南館となり、昔日のおもかげは、いまはない。ビルの北側にたてられた「帝国座跡」の碑が、この船場の地に、当時の先端の演劇が行われていたことを伝えてくれるだけである。
参考資料
明治ニュース辞典(株式会社毎日コミュニケーションズ)